東京YWCAの沿革・歴史
YWCAがキリスト者の祈りと奉仕のグループとしてロンドンに誕生したのは1855年でした。
その後、各国の同じ目的の団体が一緒になり1894年に世界YWCAができました。当時のYWCAは、キリスト教の伝道と女性の教育を目標にしていました。
日本にYWCAができたのは1905年10月で、東京YWCAはその年の11月にできました。世界YWCAから派遣されたキャロライン・マクドナルドが日本 YWCAの初代総幹事をつとめ、女性の自立と解放をめざして歩み始めました。東京YWCAの初代の会長は津田梅子です。1914年に派遣されたエマ・カフマンは、その指導力と私財を投じ、無給の幹事として東京YWCAの基礎を作りました。
以来100年、激動する世界の、日本の歴史の中で、キリスト教を基盤として、さまざまな活動を繰り広げてきました。第二次世界大戦後は戦争の反省にたって、平和の実現を活動の1つの柱として、人の命を大事にし、環境を守るための活動にもカを入れています。
ことばと写真でみる100年
年表 東京YWCAの100年.pdf [21.3MB]
『年表 東京YWCAの100年』追記.pdf [80KB]
1914年 好友園
小石川区金富町において労働者家庭のための隣保事業を開始。運動場は近隣の児童のために開放した。
1915年 神保町会館落成
新會館の落成に際して
新渡戸まり子
該新會館内に於ける聖書研究及英語組等は、舊のまゝ之を繼續いたします。私共はこれらの大いに大切なる事を信じ、又其數に於いても其實質に於ても、益々増進發展せしめん事を心掛けて居ります。(略)三階に於ける種々の教室、委員室等の他に、二階には瀟洒たる應接室、圖書室及來客室等があります。(『女子青年界』1915年 第9号より)
活動の発展とともに会館の必要を痛感し、募金活動を行い、木造3階建ての会館を完成。屋内体育館を持つ日本初の婦人会館であった。
1919年 日本最初のパジェント「YWCAの精神」公演
YWCAを広く社会に紹介するために行われた。オーケストラ付き、指揮者は津田塾講師のシェレシェスキー女史。
1923年 関東大震災 神保町会館焼失
焼け跡にテントを張り、水道町寄宿舎を開放した。他団体と月島地区の被災者の救援事業も開始。これを機に東京の婦人団体の連合会ができた。
1926年 国領憩いの家
青年女子の精神・体育の向上と職業婦人の休養のために、緑濃い地に白と緑の調和よき洋館が新築され寄付された。写真は炉びらきの光景。
1931年 第一回野尻湖キャンプ
知・体・心の成長にキャンプは不可欠という信念に基づいて、野尻キャンプ場が開設された。
外人村での試みのキャンプ 関屋綾子心もはずみ、みんなで歌をうたいながら、小走りに走り、朝もやに包まれてひっそりと静まった湖の畔りに立って一同大満足。帰りは前にも増して嬉々とうかれた様にテントにもどった。(『会員が綴る九十年』より)
1949年 婦人団体協議会主催 婦人平和大会
「世界の平和は婦人の手で」などをスローガンに神田中央大学講堂にて開催。600名出席。渡辺松子総幹事(写真)のあいさつに続きパネル式討論があった。
1954年 新会員歓迎会
植村環日本YWCA会長による礼拝につづいて、市川房枝参議院議員(写真)から「憲法をめぐるおはなし」をうかがった。出席者110名。
1968年 シンポジウム「明日に開く女子の職業」
東京YWCA学院、秘書科教室増築記念プログラムとして開催。若い働く女性たち500名が参加した。
無料職業紹介所の発足。「市民として職業人として家庭の一員として、女性が社会に果たす役割がある。そのために職業教育と就職指導が大切」と渡辺松子学院長はよく話されたと、鳴海静子さんにうかがった。そして職業紹介所設置を労働大臣に申請し、厳しい審査の結果1964年に許可された。学生のほか会員や一般女子を対象に、年間を通して就職、転職、再就職を紹介するのは女性の地位向上に必要と考えてのことだった。職種は秘書兼事務、英文タイピストなど。当時日本の会社での秘書は庶務課の一員が多かったが、外国の商社で努力し外人付きの秘書にまで成長した卒業生も大勢いる。YWCAの秘書教育について、求人先への説明に努めるとともに、求職者の相談にあたった。
1981年 中国帰国者日本語教室
全国社会福祉協議会の委託により砂土原センターに開講した。2005年現在、年間3回の交流会も行われている。
2002年 「留学生の母親」運動
2002年、国際交流基金より「国際交流奨励賞」を受賞。
2005年 100周年記念式典
日本YWCA・東京YWCA創立100周年記念式典が、世界YWCA会長モニカ・ゼッチェ氏はじめ、多数の海外ゲストも招いて行われた。