YWCAの運動は、19世紀の半ば過き、産業化の波に若い女性を大きく巻き込んで変化する英国で、二つのグループの運動が合体することから始まりました。一つは祈りを通して互いに支え合っていこうという「プレイヤー・ユニオン」のグループ、もう一つは、クリミヤ戦争の負傷兵の手当てに行く女性たちのための宿泊所から始まって、聖書クラス、教育活動などさまざまな社会活動をしていたグループです。具体的な社会行動と、それを支える信仰運動の合体。この成り立ちは、YWCAの性格を良く表していると思います。以後およそ百年、YWCAは志を同じくする人々によって世界中に広まって来ました。
現代の世界は、抑圧、貧困、難民、飢餓、戦争などさまざまな問題を抱えています。そして一方では科学技術の粋を使った途方もない無駄遣いや、その結果としての環境破壊など、現代文明のひずみが大きく現れています。それらを通じて最も大きな問題の一つは、どの文化圏の人々の間にも、絶望感、目的喪失感が広がっていることだと言われます。昔に比べて現代は、信念や信仰など流行らない時代かもしれません。しかし、このような物質的欲望、権力欲に流される時代だからこそ、一体これで良いのだろうか、人間とは何なのか、生きることとは、真実とは‥‥というような深い求めは、無意識の中にも人々の中に強くあるのではないでしょうか。
虚無感に押し流されず、時代の問題に取り組む市民の団体は世界中に数多くあります。思想、信仰のことは言わず、事柄において協力して行ければそれでいい、というのも一つの立派な行き方です.YWCAもそのような団体と数多く協力関係にありますし、YWCAの会員の中にも個人としてそういう団体に関わっている方は少なくありません。しかし、ただ具体的な活動だけでなく、その拠って立つところを共に探り求め、虚無と闘いながら、真実を見出だそうという、そういう団体もあっていいし、必要なのではないでしょうか.YWCAはそういう団体なのだと思います。
虚無と闘いながら、希望を持って真実を求め続ける道程、これは決してたやすい旅路ではありません。それなりの決心、用意が必要です。少なくとも道筋をたどるための地図がいります.(宝探しに地図はつきものです)これこそがその地図だ、というものは幾つかあるかもしれません.しかし、あれもこれも、違った地図をまぜこぜに使ったらわけが分からなくなってしまいます。それに、地図というのは実際に体を使って歩いてみて初めて真の意味、真の価値が分かるものです。どれかを選択しなくてはなりません。 YWCAは、聖書を自分たちの地図として歩いていこうと決断している団体なのです。
聖書は、それに従って歩いていくとき、単なる地図でなく、生きたもの、語りかけるものとなっていきます。ちょうど、愛する人たちの命をかけた遺言書がそうであるように。
聖書という地図の中の大きな道標はイエス・キリストです。イエスは神の子であられたのに人間としてこの世に来てくださいました。私たち一人一人を、特に小さしい者、悩み苦しんでいる者を限りなく愛し、共に歩んでくださり、ついには人間の罪を負って十字架にかかって死なれました。しかし神はこのイエスを死から蘇らせられたのです。(ピリピ 2:6・11,4福音書) キリスト教ではこのイエスを救い主(キリスト)として、父なる神、聖霊なる神と共に、三位一体の神として信じています.神は私たちの上にいらっしゃってすべてを導いてくださり、私たちと共にいましてどんな苦しみの時も一緒に歩いてくださり、また、私たちの内にいてくださって真実を悟らせてくださいます。
YWCAは、人生の旅の途上でイエスに出会って、全存在を揺り動かされた人たちが、感謝と喜びをもって、この世界でイエスに従って共に働いていこうと決心して出発した団体です。それがYWCAの個性であり、独自性であります。人間一人一人個性があるのと同様、団体も個性があって当然だと思います。それがなくなったら生きているとは言えなくなるでしょう。
YWCAとして、真実を求める旅路を、共に歩み続けていきたいと心から願います。